1943年、イレーナ・センドラー(Irena Sendler)とヤニーナ・グラボウスカ(Janina Grabowska)は、ゲシュタポが玄関の戸を叩く音に身を凍り付かせました。あと数分で逮捕される身と知り、イリーナさんは非常に危険な所持品をヤニーナに託しました。ワルシャワのゲットーからセンドラーさんが連れ出した2,000人以上ものユダヤ人の子供たちの名前を収めたガラス瓶です。この勇敢な女性は一体何者だったのでしょう? イーサルト・ギレスピー(Iseult Gillespie)さんが、イレーナ・センドラーさんの生涯と遺産について語ります。
1940年には、ヒトラーがワルシャワにいる何十万人ものユダヤ人を、わずか2.6平方キロメートルの土地に住まわせると決めました。高い壁に囲まれ、常に監視の目にさらされてワルシャワのゲットーに住む家族たちは、まもなく空腹と病にあえぐことになります。
センドラーと仲間たちは連携して救出計画を企てました。子供たちを汚れた洗濯物に包み、貨物列車の箱に詰めてゲシュタポの目の前を棺や道具入れや書類鞄に入れて通したのです。より年かさの子供たちは、裁判所や教会など、ゲットーの境界近くの建物を通じて逃れました。
センドラーは子供たちを隠れ家に運び、その後で新しい書類を偽造して、ポーランド各地にある孤児院や修道院、里親のもとなどへ送りました。また、ユダヤ人としての出自を保ち、一人一人の子供の記録のため薄いタバコの巻き紙に、逐一記録を書いてガラス瓶に収めていたのです。この行為は死刑を免れないものでした。しかし、センドラーにとっては再会できる保証などなくても、我が子を逃がしたいと考える親の痛みに比べれば、大したことではありませんでした。
10月20日の午前3時にゲシュタポは、センドラーの部屋に踏み込み、ポーランド中のユダヤ人を助けたかどで彼女を逮捕しました。何か月にもわたる身体的・心理的拷問を受けても、センドラーはまったく情報を漏らしませんでした。最後まで抵抗をした彼女は1944年1月20日に死刑に処されることとなります。しかし、死刑執行の場へ向かう途中、ドイツ人将校が彼女の人生を変えました。ジェゴタ(ユダヤ人救済委員会”pl:Rada Pomocy Żydom”の暗号名)がゲシュタポに現在の1,000万円にあたる賄賂を払いセンドラーを釈放させたのです。その晩、拡声器で彼女の死が伝えられるのを聞きながら、センドラーの活動は再始動しました。身を隠しつつも、彼女はジェゴタの救出計画を監督し続け、1945年のドイツ敗戦まで続きました。
- 一人でナチスから2,000人以上の子供たちを救った人物 ― イーサルト・ギレスピー(TED)
- Japanese translation by Moe Shoji. Reviewed by Tomoyuki Suzuki.(日本語字幕を読む)
1965年、センドラーはイスラエルのヤド・ヴァシェム・ホロコースト記念館 (Yad Vashem) によって「諸国民の中の正義の人」に認定され、渡航許可を得た1983年に贈られています。またイスラエル協会からは「騎士十字勲章」を受けています。
2003年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世はセンドラーに親書を送り、戦中の献身的な活動を賞賛しました。2003年10月10日、ポーランド政府から民間人に贈られる最高位の勲章「白鷲勲章」を授けられます。また、ワシントンのアメリカ・ポーランド文化センターから「ヤン・カルスキ (Jan Karski) 記念愛と勇気の賞」を贈られました。
2007年のノーベル平和賞の候補者となっています。
イレーナ・センドラーさんは、生涯最後の一連のインタビューの中で次のように述べています。
「“英雄”という言葉で呼ばれることに私は大きな抵抗を感じます。実は私はその反対なのですから。私はほんの少しの子供たちしか助けることができなかったことで、良心の呵責にさいなまれて生きつづけているのです。」(Wikipedia)