アイヌ絵は、江戸時代後期から明治時代にかけて、和人の画家がアイヌをモチーフにして描いた風俗画で、日本画や浮世絵の様式の一つです。平沢屏山(ひらさわ びょうざん(へいざん)、1822年9月 – 1876年8月)はアイヌとともに暮らしつつ、アイヌの生活をモチーフに数多くの作品を描き、アイヌ絵を代表する絵師となります。1854年の箱館開港後は、在留外国人たちの蝦夷土産の定番となり、屏山晩年の秀作の多くは海外で確認されています。
平沢屏山の代表作、右上から1月:年礼図、2月:山猟図、3月:布海苔採集図、4月:家族団らん図、5月:鰯粕干図、6月:昆布採集図、右下から7月:鱒漁図(テシ漁図)、8月:サケ漁図、9月:マレク漁図、10月:出猟図、11月:神祈図、12月:熊送図です。(函館市指定有形文化財)
アイヌ絵を描いた絵師は浮世絵師を除いて10人余りが知られていますが、その中でも平沢屏山(本名は国太郎、または助作)は作品数で群を抜いています。彼の画歴ははっきりせず殆ど独学とも推測されます。また、アイヌ風俗表現として先行する村上島之允が描いた「蝦夷島奇観」を模写して換骨奪胎した作品が残っています。屏山は独自のアイヌ人物描写を打ち立て力作を生み出した一方で、粉本を用いた類型的な表現や、同工異曲の作品も数多く残っています。
- 北海道開拓の先駆者村上島之允(歴史の情報蔵/三重県)
- 蝦夷島奇観 / 秦檍磨(村上島之允)(東京国立博物館)
岩手県の大迫町で生まれ、弟とともに箱館に移住します。船絵馬を描いていましたが、当時の屏山は「絵馬屋の飲ンだくれ」と呼ばれたということです。アイヌとともに暮らしつつ描くアイヌ風俗画は評判となり、幕末には多数の注文を受けます。特に、箱館開港後は、在留外国人から蝦夷土産として屏山の絵を求めないものはいないほど需要があったと言います。
トーマス・ブラキストンは1枚100円(現在の460万円ほど)という高額の画工料で制作を依頼し、明治元年(1868年)にはロシア領事も依頼しましたが、屏山の遅筆が甚だしく運上屋に厳談して筆を執らせたという逸話が残っています。こうした事情のため、屏山晩年の秀作の多くは海外で確認されています。明治9年(1876年)函館で没しています。
オムシャは、江戸時代にアイヌ(蝦夷)に対して実施された撫育のための措置です。後に年中行事化します。松前藩とアイヌの間の交易でも初期には交歓の意味での儀礼であったのですが、後に交易や漁労の終了時のアイヌに対する慰労行事となり、更に蝦夷地統治の手段として転化していくことになります。