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ラウル・ワレンバーグ(Raoul Wallenberg)の勇気と功績

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ラウル・ワレンバーグRaoul Wallenberg, 1912年8月4日 – 1947年7月17日?)氏は、スウェーデンの外交官、実業家です。第2次世界大戦末期のハンガリーで、外交官の立場を最大限に活用して10万人にもおよぶユダヤ人を救い出すことに成功しました。

ワレンバーグは高校を首席で卒業、米ミシガン大学へ留学します。帰国後、南アフリカやパレスチナで貿易商、銀行家として働きます。そこでナチスの迫害を逃れてきたユダヤ人たちに出会っています。

ラウル・ワレンバーグ(Raoul Wallenberg)/ Wikipedia
ラウル・ワレンバーグ(Raoul Wallenberg),1944年 / Wikipedia

1944年3月にドイツがハンガリーを占領、米国のルーズベルト大統領がユダヤ人保護のためつくった「戦時亡命者委員会」が、ハンガリーへ派遣できる人材を中立国スウェーデンに打診します。

ユダヤ人の窮状を知っていたワレンバーグは、自分に外交官特権を付与してくれることを条件に、危険を承知の上で1944年7月にブダペストに赴きます。

ワレンバーグは、スウェーデン名義の保護証書(Schutz-pass)なるものを発行して、ユダヤ人たちをスウェーデンの保護下におこうと考えます。国際法的に効力はなかったのですが、杓子定規な書類仕事を好むナチス・ドイツの性癖を逆手にとり、大量に印刷してユダヤ人保護に成功します。

ナチスのアドルフ・アイヒマンによって、10万人近いユダヤ人たちを国境まで歩いて移動させ、そこから強制収容所へ送るという「死の行進」が実行されます。道中で多くの人が倒れましたが、そこでも保護証書を配ってユダヤ人を救い出し、国際世論に訴えてこれを止めさせることに成功しました。

しかし、1945年1月ドイツ撤退後に進駐してきた旧ソ連軍司令部に呼び出されたのを最後に行方不明となります。ワレンバーグ氏の捜索は現代に至るまで続けられています。

イスラエルでワレンバーグ氏の顕彰碑が1979年につくられ、1986年にはイスラエル初の名誉国民、ヤド・ヴァシェム(Yad Vashem)から「諸国民の中の正義の人」の称号が贈られます。米国では、1981年にウィンストン・チャーチルにしか与えられていなかった名誉市民権が与えられています。
ワレンバーグ氏の功績は世界中で評価され、世界各国で学校名に使用されています。また、ブダペスト(写真)を始め、世界各地にその勇気と功績を讃える記念碑が建てられています。

Wallenberg Monument, Budapest / Wikipedia
Wallenberg Monument, Budapest / Wikipedia

スウェーデン政府は2016年10月31日、正式にワレンバーグ氏の死亡を認定しました。行方不明となってから70年以上が経過してからの認定となりました。

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