視力を失うことが「目が見えない」に変わる瞬間はいつだろうか? 作家、音楽制作・編集を手がけるアンドリュー・リーランド(Andrew Leland)さんが、徐々に視力が失われていくことで「目が見えないこと」の逆説的な真実が明らかになったと話します。そして、そこには、どんな人の世界の見方も変えうる含蓄があると、彼が確信している理由を説明します。
- TED Speaker: Andrew Leland(Writer, audio producer, teacher)
- andrewleland.org
こんにちは アンドリュー・リーランドです。私は目が見えません。これから、そのことをお話しします。こう切り出すと私もあなたも混乱するでしょう。今の私の様子からはきっと目が不自由なようには見えないのでは?
私はいつか失明します。正確な時期はわかりません。10代の頃、私は網膜色素変性症(RP)という網膜変性疾患の診断を受けました。10代から20代前半の頃は、夜だけ病状を自覚しました。その後30代前半になると、周辺視野が悪化し始めました。今は中心視野は見えますが、かなり小さな小窓から世界を見ているようなものです。だから洋ナシやカバは見えていても法的には視覚障害者です。
どこまで視力を失えば、目が見えないと正当に言えるようになるのか? 先日こんな写真をオンラインで見ました。(アンドリュー)画像の キャプションには「何かが変だと思ったらコメントして」とありました。この写真の何が変だかわかりますか? この写真をシェアした人々が出した答えは「女性は目が見えないはずがない」です。目が見えないなら携帯電話を見るはずがない。視覚障害者は物を見たりしないと・・・
人は二項対立を好みます。ネットでは特にそうです。ネットは曖昧さを受け入れにくい場所です。目が見えないことはスペクトラムです。目が見えないことの程度や状態は実にさまざまです。私とは逆の状況の人もいます。周辺視野しか見えず、中心は見えないこともあるのです。他の人が見る世界はまるで眼鏡にワセリンが塗られているように見えたり、頭をラップで数回包まれたかのように見えたり、割れた金魚鉢の分厚い底を通して見えたりします。何も見えず暗闇だけという視覚障害者はごくわずかです。
目が見えないことがスペクトラムなら、実際には目が見える人もそこに含まれるのか? パラドクスは双方向に作用します。視力をどれだけ足せば、目が見えると言えるのか? 視力があまりよくなくても、どこかの時点で目が見えると認定する必要があります。私は「視覚障害者」の立場を確保しておくことは、視力を矯正する余地がなく、読んだり歩き回るのに福祉機器が必要な人々のために重要だと思います。他方で目が見えないことを、このように切り離すと視覚障害者を奇妙で神秘的とか不快なものと見なすことになりえます。
最後に「ですから、今度目の見えない人が目の見える人にしかできないはずのこと ーー あなたと目を合わせたり、映画を見たり、バス停で携帯をチェックするのを見かけたら、視覚障害者でも目が見えるかもしれないことを忘れないでください」と述べています。
- The Country of the Blind: A Memoir at the End of Sight(Penguin Random House)
- Book Review: ‘The Country of the Blind,’(7/23 The New York Times)