1904年12月12日、ロントゥル村長(Chief Lontulu)は110本の小枝を調査委員会の前に並べました。1本1本の小枝は、レオポルド2世(ベルギー王)によるコンゴの恐怖政治で犠牲になった彼の村の住人(名士、男性、女性、子供たち)を表していました。彼の証言は、他の何百もの証言に加わり、史上最悪の残虐行為に終止符を打たせました。ジョルジュ・ンゾンゴラ=ンタラジャ(Georges Nzongola-Ntalaja)さんがレオポルド2世によるコンゴの占拠と略奪を解説します。
- History’s deadliest king – Georges Nzongola-Ntalaja(TEDEd)
- Georges Nzongola-Ntalaja(en:Wikipedia) 2022年からコンゴの国連常任代表
1800年代の終わり頃から欧州各国は、いわゆる「アフリカ分割」に参画しました。アフリカ大陸の90パーセントを植民地化し、アフリカの資源を食いものにして母国を裕福にしました。ベルギーは当時独立王国になったばかり、国王レオポルド2世は「壮大なアフリカというケーキの一切れ」を手に入れたがっていました。
彼は植民地探検家ヘンリー・ モートン・スタンリーのコンゴに関する報告書を読み、スタンリーと契約を交わしました。現地でスタンリーは首長らを欺いて約450の条約に署名させ土地利用を認めさせました。レオポルド2世は、地域の自由貿易保護を保証することで欧米列強を説得し、1885年5月29日にベルギーの80倍の広さに2,000万人が住む土地がレオポルド2世個人の植民地であると宣言されました。
レオポルド2世は土地を接収し軍隊を組織し、多くのコンゴ人男性を強制的に無給労働に従事させました。1887年には空気式タイヤが実用化され、巨大な国際的なゴム市場が形成されます。コンゴは世界最大級の供給力を有しており、彼の軍隊は村に入り、不可能な割り当てが達成されるまで、女性と子供たちを人質にしました。兵士は女性に性的暴行を加え、子供たちから食べ物と水を奪いました。
レオポルド2世の軍隊は、抵抗や割り当ての未達に対して断固とした拷問や処刑で応えました。銃や銃弾は高価で、士官は兵士に銃弾を職務で使用したことを証明するため、殺した者の手を切り取って持ってくるよう命令しました。しかし、多くの兵士は銃で「狩猟」をしていました。厳罰や失った銃弾の釈明を避けるため、兵士は生きている人たちの手を切り落としました。兵士は罰としても手を切り落としていました。
1890年、米国人ジャーナリスト、ジョージ・ワシントン・ウィリアムズ(George Washington Williams)が、レオポルド2世を「詐欺、不正、強盗、放火、殺人、奴隷狩り、残酷な政策」で告発。1903年、外交官ロジャー・ケースメントは、残虐行為の本質と規模を裏付ける報告書を書きました。調査委員会はコンゴで多数の証人を聴取、ロントゥル村長もその一人です。圧力に直面したレオポルド2世は、1908年にコンゴの支配をベルギー政府に譲渡しました。
レオポルド2世によるコンゴの占拠と略奪の間に約1,000万のコンゴ人が亡くなったと考えられています。損害賠償の要求はうやむやのままです。今日でも想像を絶する残虐な行為という土台の上に、レオポルド2世が建てた記念碑をベルギーのいたるところで見ることができます。1998年に米国で出版されたアダム・ホックシールドの著作「レオポルド王の霊」は異例のベストセラーとなります。2006年に同じタイトルでドキュメンタリー映画化が行われています。
- レオポルド王の霊(King Leopold’s Ghost)(Wikipedia)
- King Leopold’s Ghost(IMDb) Ratings: 7.5