何億年も前に地球の海と大気が「酸素」で飽和し、それ以来、数百万年をかけて多くの生物が酸素に頼る方向で進化してきました。しかし、地球の初期の時代に現れた嫌気性の微生物も一部の場所で生存していて、再び脚光を浴びています。アルプスの高山地帯の一角、ピオラ渓谷もそんな場所の一つです。欧州で数少ない部分循環湖(meromictic lake)のカダーニョ湖(Lake Cadagno)について、二コラ・ストレッリ(Nicola Storelli)さんと、ダニエレ・ザンジ(Daniele Zanz)さんが詳しく説明します。
およそ30億年前のこと、新しい化学物質を吐き出す単細胞の光合成細菌が現れました。その化学物質は地球上のほぼすべての生物にとって有害な物質でした。その後、何億年もの間にこの有毒ガスを生成する微生物はどんどん種類が増えたので、地球の海水すべてがこのガスで飽和し、最終的には大気まで飽和しました。この化学物質のために、その時点で大気の成分組成が大幅に変わり、結果として地球全体が氷河期となりました。強力かつ有毒で世界を一変させたこの物質とは「酸素」です。
大酸化イベント(Great Oxidation Event)以降の数百万年のうちにすべての多細胞生物を含めて生物の大半が、このガスを頼りに命をつなぐよう進化していきました。ところが地球の初期の時代から存在する嫌気性の微生物も、限られた場所で独自の進化を遂げ現在再び脚光を浴びています。そうした場所はほとんど研究者の手が届きにくい深海にあります。ところが、探査できる深さなのに酸素を全く含まない水域も実在します。その一例として、アルプスの高山地帯ピオラ渓谷にたたずむ湖を紹介します。
1万年以上前に形成されたカダーニョ湖は、世界に約200カ所ある部分循環湖の一つで湖水は性質の異なる水の層が実に2つ積み重なっているのです。上層は淡水域で一般的な湖とほぼ同じです。人が泳ぐことができますし、肉付きの良い魚がたくさん集まるので、地元の釣り人の間では何世紀も前からとびきりの釣り場として有名でした。しかし、そのわずか13m下は、硫黄分を含み無酸素の高密度の水の層です。魚などの多細胞生物は生存できません。
上層と下層の境界には体がピンク色のクロマチウム・オケニー(Chromatium okenii)で主に構成される薄い層があります。この生物は硫黄に頼って生きる光合成細菌です。一方、他の植物は大抵酸素に頼って生きています。ただし 水も生物も元々の層を越えて移動することはないものの、それぞれの生態系が完全に分離しているわけでもありません。
クロマチウム・オケニーは、できるだけ太陽の近くにいる必要があるので、下層の中ではいちばん上の層に生息しています。クロマチウム・オケニーは、酸素を含む危険な上層には行きませんが、動物プランクトンなどの生物が水中で少し潜ってそれを食べ、上層に戻れる程度の近さにいるのです。実は、この関係こそがカダーニョ湖の豊かな食物連鎖の根本原因です。この湖に集まる魚が昔から大きい理由の根拠となっています。
カダーニョ湖のユニークな生態系を喜ぶのは 釣り人だけではありません。嫌気性生物の貴重な生態系を比較的容易に観察できるため、科学者は大酸化イベント以前の世界のモデル化ができます。例えば、クロマチウム・オケニー(Chromatium okenii)が層を形成すると、その薄い水の層の密度が高まります。すると、水が沈むのでそうした微生物は泳ぎ戻らざるを得なくなり、水がわずかに混ざり合います。これを「生物対流」といいます。この数十億年間の生物の営みにより、太古の生物が泳力について進化した過程の解明が進むかもしれません。カダーニョ湖の不思議な水の研究は、まだまだ掘り下げられそうです。研究者は今後も多数の知見を得るでしょう。