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Ainu 3kagin

アイヌの三大歌人「バチェラー八重子・違星北斗・森竹竹市」の活動

知里幸恵ノート(1923年出版)には、「私達の先祖は本当に詩人だったと思います。」と記されています。同時代、生活の実態を歌や詩として発表したアイヌ民族が各地にいました。バチェラー八重子は「若きウタリに」(1931年刊)を出版し、違星北斗は没後に「コタン 違星北斗遺稿」(1930年刊)がまとめられ、森竹竹市は「若きアイヌの詩集 原始林」(1937年刊)を出版しています。彼らはアイヌの三大歌人と呼ばれています。

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左からバチェラー八重子、違星北斗、森竹竹市 / Wikipedia, Upopoi

バチェラー八重子は北海道伊達町有珠に戸籍名は「向井八重子」、幼名は「フチ」として生まれます。アイヌ豪族の父向井富蔵は、英国人の聖公会 宣教師ジョン・バチェラーを信頼し、娘の八重子の受洗を承認するまでになります。1906年に八重子はバチェラーの養女となり、伝道師として活動する中でウタリの苦境に心を痛め、そうした思いを歌に詠み、1931年(明治6年)に「若きウタリに」を出版します。

違星北斗は北海道余市町で生まれ、アイヌ民族の地位向上のための運動に一生を捧げ、その思想を新聞や雑誌に短歌の形で発表して、同時代のアイヌの青年たちに影響を与えました。また、道内のアイヌコタンを廻って、まずアイヌ自身が自覚し、団結することが必要であると説いています。

森竹竹市は北海道白老郡白老のコタンにに生まれます。1923年、21歳の時には青吟社・老蛙会に入会し、俳号を「筑堂」とし句作を本格的に始め、新聞などに短歌や俳句を投稿するようになります。

昭和期の詩人の新谷 行(しんや ぎょう、1932年 – 1979年3月)は、森竹の詩集「原始林」で「アイヌ民族復興の願い」が間接表現なのは、軍国主義へと向かっている中で用心深くなっていたと推測しています。敗戦直後から、森竹の言行は「あいぬ民族の明確化」へと向かいます。

新谷 行氏の意見では、明治から現代に至るアイヌ研究家は「同化させるべき対象」としてか、「滅びゆく文化を代表する存在」としてしかアイヌ民族を扱ってこなかった。金田一京助高倉新一郎の学者としての業績は「アイヌを犠牲にした結果」とまで極言しています。和人学者のそのような態度に抵抗するものとして、知里幸恵・知里真志保・バチェラー八重子・違星北斗・森竹竹市・鳩沢佐美夫などのアイヌ作家の活動は、民族の生命力の証として積極的に評価されるとしています。

Yukie Chiri Notebook
Yukie Chiri Notebook(知里幸恵ノート) picture No95 Hokkaido Prefectural Library Northern Regions Literature / Wikipedia

知里幸恵(1903〜1922年)さんの「アイヌ神謡集」の出版(1923年)は、当時の新聞にも大きく取り上げられ、多くの人が知里幸恵を、そしてアイヌの伝統・文化・言語・風習を知ることとなります。また幸恵が以前、金田一京助から諭され目覚めたように多くのアイヌ人に自信と誇りを与えました。幸恵の弟、知里真志保は言語学・アイヌ語学の分野で業績を上げ、アイヌ人初の北海道大学教授となります。また、歌人として活躍したアイヌ人、森竹竹市・違星北斗らも知里真志保と同様、公にアイヌ人の社会的地位向上を訴えるようになりました。幸恵はまさに事態を改善する重要なきっかけをもたらしています。

知里幸恵ノートには、「Upopo や Rimse はたく山ありますが、何の訳かわからないのが多々御座います。とにかく、これは、みんな神を讚美する一つの美しい詩であると私は思います。私達の先祖は本当に詩人であったと思います。」と記されています。

近代のアイヌ文学は、アイヌ民族が置かれた社会状況を反映したものでした。アイデンティティの観点からみれば、近代のアイヌ文学者たちは、同化を強いられる一方で、「滅び行く人種」という通念や差別の現実に抗い、「日本人」や「和人」になることと、「アイヌ」であることとの間で自らの生きる道を模索してきました。下記はウポポイ第6回特別展示(6/24-8/20, 2023)の「見どころの動画」です。

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