北海道開拓の常紋トンネルとタコ部屋労働

常紋トンネル(じょうもん)は、JR北海道石北本線にある単線非電化の鉄道トンネルです。生田原駅と金華信号場の間にあり、遠軽町と北見市とを結ぶ常紋峠下を通ります。本トンネルの金華信号場側には2017年まで西留辺蘂側坑口付近に常紋信号場がありました。1912年(大正元年)3月に湧別線常紋隧道として着工。常紋という名前は常呂郡の北見側(旧留辺蘂町)と、紋別郡の遠軽側(旧生田原町)から付けられました。

石北本線常紋トンネル 生田原方 / Wikipedia

常紋トンネルは、凄惨過酷なタコ部屋労働で建設されたことでも有名です。本州から集められた「タコ」とよばれた労働者は、わずかな食事と過酷な労働から、1912年3月から1914年10月の工事完了までの間に100人を超える死者を出しました。施工当時、重労働と栄養不足による脚気から労働者は次々と倒れ、倒れた労働者は治療されることもなく体罰を受け、遺体は隧道や現場近くの山林に埋められたと言われます。

囚人道路(しゅうじんどうろ)とは、明治20年代ごろの北海道各地において、囚人たちの労働力によって建設された道路の俗称。代表的なものとして札幌から旭川、北見を経て網走に至る中央道路が知られています。明治20年代後半からのインフラ整備は、道路の拡張ではなく鉄道の整備となり、人口が増加して脱獄囚が容易に人家を襲い逃亡することが可能になったこともあり、鉄道建設に関しては労働力の中心に囚人を利用すべきではないと指摘され囚人労働は減少します。しかし、強制労働としての性格は、土工部屋に収容して土木工事に半強制的に駆り立てた「タコ部屋労働」へと引き継がれていきます。

「タコ」の語源については、諸説あり定説がありません。(1)タコ(蛸)は一旦岩に吸い付くと死ぬまで離れないように、土工夫もタコ部屋に入ると必死で労働するからだとも、(2)タコのように自らの足を最後の食料とするように、前借り金を負った土工夫も代償として自らの肉体と労働力を切り売りするからとも、(3)この種の労働者を東北地方北部を中心とした他の地域から、斡旋業者の甘い言葉に乗せて他人に雇用されるから(他雇)とも、(4)労働者がタコ部屋から糸の切れたタコ(凧)のように逃亡するからとも言いますが、何れも確実なものではないそうです。

常紋信号場を通過する157号機 / Wikipedia

「北海道開拓の常紋トンネルとタコ部屋労働」への2件のフィードバック

  1. blank
    岩淵 秀哉

    私は65歳の札幌東区在住日本人ですが、札幌でかまどを持つ前までは、北見相生線津別駅前に実家がありました。津別→美幌→北見→遠軽→旭川と石北線を利用する事は多々有り、この常紋トンネルを良く利用しました。当時から、網走地方では常紋トンネル=「たこ部屋」の話題は知られていて「常紋トンネル」を利用するたびに背筋が寒くなる思いがありました。

    車での帰省が多くなり、石北線利用機会が無くなりましたが、ユーチュバー(スーツ氏)等の常紋トンネル紹介記事には関心を寄せてしまいます。「たこ部屋、朝鮮人の道内での過酷労働が道内建造物には欠かせないと記録されています、先人の霊は報われたのでしようか?

    1. 岩渕さん、参考になるコメントありがとうございます。私も40年くらい前に網走市緑町4番(200m先は番外地で刑務所でした)に7年間住んでいました。その当時、小池喜孝氏の著書「鎖塚」「常紋トンネル」を読んで「タコ部屋労働」を知りました。

      大学生のスーツ氏YouTubeを興味深く見ました。現代の視点から「タコ部屋労働」を説明、語りも非常に分かりやすいです(^^)
      名列車で行こうハイレベル編 屍の鉄路・石北本線(リメイク)
      【第43日ふろく】日本一長い切符の旅《タコ部屋労働について》再うp

      小池氏のあとがき「常紋トンネル殉難タコの発掘・慰霊の日を前にして」にあるように、「タコ部屋と日本資本主義の関係」を歴史に埋没させずに正しく解明することが、「先人の霊に報いる」唯一の方法のように思っています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です