コンテンツへスキップ
Shion Miyata

アイヌ民族と沖縄戦、アイヌ兵士43人の生きた証しを探す旅

沖縄戦とは、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)、沖縄諸島に上陸した連合国軍と日本軍の戦いの総称です。沖縄戦では20万人以上が犠牲になり、北海道出身の死者数は1万人以上、そのうち少なくとも43人がアイヌ民族だったと言われています。彼らの痕跡を沖縄の暗い洞窟(ガマ)で探し続ける、アイヌ民族にルーツを持つ札幌出身の宮田士暖(しのん)さん(20歳)がいます。「遺骨を故郷に返してあげたい」と、自らとも向き合いながら「戦争の記憶をたぐる旅」を追っています。

Okinawa sengo80
いまだ1人も遺骨が見つからない“アイヌ兵”を「故郷に返したい」…20歳の大学生が遺族探しの旅で感じた失意と覚悟 / 北海道ニュースUHB

宮田さんは東京学芸大学の2年生。現在は実家を離れ一人暮らしをしています。曽祖母がアイヌの家系だというが、札幌にいたときは偏見やいじめを恐れ、友人にも自身のルーツを話すことはなかったそうです。転機は2年前の大学進学。自らのルーツに誇りが持てるようになります。

過去をさかのぼっていくと、戦争の悲惨さに憤りが抑えられなくなったと言います。さらに、アイヌ文化の伝承者で知られる多原良子さんが沖縄で遺骨収集に参加したことを報道で知り、強い関心を抱きます。

Shion Miyata
いまだ1人も遺骨が見つからない“アイヌ兵”を「故郷に返したい」…20歳の大学生が遺族探しの旅で感じた失意と覚悟 / 北海道ニュースUHB

今年3月宮田さんは、沖縄戦最大の激戦地となった糸満市国吉(国吉の丘陵地帯における戦闘)を遺骨収集に参加するために訪れます。

遺骨収集には、新聞社に勤めていた浜田哲二さん(62歳)と、妻の律子さん(60歳)が帯同してくれました。2人は多原さんの記事を書いたジャーナリストで、25年以上、遺骨収集のボランティアに携わっています。3人は、戦時中に自然の防空壕として使われた「ガマ」と呼ばれる小さな洞窟に入りました。ここでアイヌの兵士5人が戦死したとの証言がありました。

宮田さんは、北海道で新たな取り組みを始めます。沖縄で収集される遺骨とその遺族を結ぶため、DNA鑑定に応じてくれるアイヌの人を探すことにしたのです。43人のアイヌ兵士の身元はこれまで一人も特定されていません。手がかりとなる写真を持っていました。

写っているのは諏訪野富雄さん(年齢不明)。北海道出身で旭川市を拠点にしていた第24師団に所属し、旧満州(現在の中国東北部)から沖縄に転戦しました。沖縄県西原町棚原の塹壕(ざんごう)で戦い、突撃して戦死。遺骨は見つかっていません。

Ainu okinawa
いまだ1人も遺骨が見つからない“アイヌ兵”を「故郷に返したい」…20歳の大学生が遺族探しの旅で感じた失意と覚悟 / 北海道ニュースUHB

宮田さんは、「胸に勲章をたくさんつけていますが、眼光が鋭くまるでにらめつけているようです。アイヌとして差別を受けないように必死だったのかもしれない。相当苦労されていたのでしょうね」と語ります。

諏訪野さんの「おい」は70代で会ったことは1度もありません。宮田さんが説明する当時の状況に耳を傾けましたが、遺骨の身元を特定するDNA鑑定を辞退。「今さらそんなことを言われても。アイヌがルーツだと知られたくありません。自分のことは伏せてほしい」と語りました。

宮田さんはアイヌ民族と戦争をテーマとした研究を本格的に始めるつもりです。今回の沖縄での遺骨収集から遺族探しまでの体験は、自分のルーツを深く見つめ直す旅でもあったそうです。戦争を知らない若者が、自らのルーツと向き合いながら決意を新たにしています。

ドキュメント「アイヌ兵と戦争」、日常の差別より戦時下に求める平等


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください