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新宿西口思い出横丁にはやきとり屋ともつ焼き屋が多い

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新宿西口商店街は、別名思い出横丁、やきとり横丁のほか、かつての俗称ションベン横丁が知られています。空襲の跡がまだ生々しい1946年(昭和21年)ごろにできた闇市にそのルーツを持ち、300軒ほどの店舗が立ち並んでいたということです。昭和22年頃は、穀物などの統制品に対する取り締まりが厳しく、統制品ではないものといえば進駐軍(GHQ)の牛や豚のモツ等でした。多くの店はもつ焼き屋を始めるようになり、その名残もあり商店街の20数店舗はやきとり屋またはもつ焼き屋となったそうです。

Omoide Yokocho night scene(October 17, 2017)/ XH Ong

戦後、焼け野原となった西口近辺は瓦礫の中で埋もれていましが、駅前には衣類品・靴・石鹸その他の日用雑貨を売る露天商があり、おでん・ふかしいも・ゆであずき・天ぷら・海草の佃煮・古本を売る、よしず張りの屋台が三・四十軒並んでいました。

火事で西口一帯が全焼してしまいます。その後に戸板一枚で区切った露店商のマーケット、統制経済時代の闇市「ラッキーストリート」が出現しています。この戸板一枚で区切った造りは受け継がれ、現在でも店舗と店舗の壁がくっついた造りになっている店舗が多いのだそうです。

Hew Omoide Yokocho(May 14, 2017)/ Yosh The Fishhead

昭和30年代に入ると「やきとりキャバレー」などという店も現れました。この店では、お客さまはやきとりで焼酎を飲むのですが、めかしたホステス達が接客サービスをするというものです。

「やきとりキャバレーの遊興飲食代は、今から思えば信じられないぐらい安かった。 やきとり5本で50円、焼酎2杯で80円、サービス料ゼロ、合計130円。これだけでもホステスの手を握ったりダンスをすることができた」そうです。面白いですね(^^)

宝来家初代店主「金子正巳」さんが書き下ろした廃盤の自叙伝に、戦後焼け野原、裸一貫から始めた成功秘話と戦後の時代背景や商魂たくましい西新宿が描かれています。

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